2013年07月27日
東京タワー
鉄塔という目線で見ると、いかに巨大かよくわかります。
業務はスカイツリーに変わりつつあるようですが、
シンボル感は衰えることはありません。
久しぶりに、中にも入ってみました。
世界第3位の国も首都です。
背の高いビルがかなり増えました。
人口は減少していく中、人は首都に集中していて、
建物は減る様子が伺えません。
2013年03月30日
横浜 赤レンガ倉庫
横浜というところは、
歴史と超現代の混在した、そういう意味で異国の土地。

ランドマークタワーのすぐ下に、
造船工場跡がありました。


旧横浜船渠株式会社第二号船渠です。
軍艦の製造もしていたそうです。
今の日本の造船は、やはり中国、韓国に
圧倒されてしまってますが、
日本の繁栄を支えた一つの歴史であることに
間違いはないでしょうね。




ライトアップされた赤レンガ倉庫も
映えます。
周囲がベイブリッジやランドマークタワーですから、
不思議な感覚です。
それにしても、夜になっても人が多いね。
歴史探究というより、
恋人たちにとってロマンチックなところですからね。。。
歴史と超現代の混在した、そういう意味で異国の土地。
ランドマークタワーのすぐ下に、
造船工場跡がありました。
旧横浜船渠株式会社第二号船渠です。
軍艦の製造もしていたそうです。
今の日本の造船は、やはり中国、韓国に
圧倒されてしまってますが、
日本の繁栄を支えた一つの歴史であることに
間違いはないでしょうね。
ライトアップされた赤レンガ倉庫も
映えます。
周囲がベイブリッジやランドマークタワーですから、
不思議な感覚です。
それにしても、夜になっても人が多いね。
歴史探究というより、
恋人たちにとってロマンチックなところですからね。。。
2012年12月01日
2012年11月12日
旧日本煉瓦製造施設@深谷
昨日、2012年11月11日に
深谷の旧日本煉瓦製造の工場に行ってきました。
近代産業遺産のシンボルは煙突とレンガ。
そのレンガ工場の窯が公開されました。

そびえたつ煙突。
周囲を見渡しても、
こういう煙突はありません。
近代産業遺産だということがよくわかります。


大勢の方が見学に来ていました。
でも、そんなに待たずに見ることができました。



数少ない現存するホフマン窯です。
最盛期には6窯あったそうですが、
時代の波に押され120年で幕を下ろしたそうです。
導入に際しては、深谷の実力者 渋沢栄一氏が
貢献したそうです。
なかなか黒字化にはならなかったようですが、
碓氷峠の建設には相当量を供給したそうです。
これ以外にも、
東京駅、慶応大学図書館、裁判所などに
使われたそうです。
残念ながら、東日本大震災の影響で、
窯の中を歩くことはできませんでしたが、
中を見れただけでも感動です。

こちらは資料館です。

こういうレンガ彫刻? 彫刻レンガ?もありました。




完成品の物流は鉄道輸送が主で、
引き込み線の跡が見られます。
現在は遊歩道として深谷駅まで約3.5kmが
整備されていました。
こういう利用方法は本当にかしこいですね!
一部で鉄橋 ・・・ 福川鉄橋 ・・・
を見ることが出来ました。
こういう工場を見るのは、
とても感慨深いです。
旅行というには近すぎますが、
とても面白い時間を過ごせました。
深谷の旧日本煉瓦製造の工場に行ってきました。
近代産業遺産のシンボルは煙突とレンガ。
そのレンガ工場の窯が公開されました。
そびえたつ煙突。
周囲を見渡しても、
こういう煙突はありません。
近代産業遺産だということがよくわかります。
大勢の方が見学に来ていました。
でも、そんなに待たずに見ることができました。
数少ない現存するホフマン窯です。
最盛期には6窯あったそうですが、
時代の波に押され120年で幕を下ろしたそうです。
導入に際しては、深谷の実力者 渋沢栄一氏が
貢献したそうです。
なかなか黒字化にはならなかったようですが、
碓氷峠の建設には相当量を供給したそうです。
これ以外にも、
東京駅、慶応大学図書館、裁判所などに
使われたそうです。
残念ながら、東日本大震災の影響で、
窯の中を歩くことはできませんでしたが、
中を見れただけでも感動です。
こちらは資料館です。
こういうレンガ彫刻? 彫刻レンガ?もありました。
完成品の物流は鉄道輸送が主で、
引き込み線の跡が見られます。
現在は遊歩道として深谷駅まで約3.5kmが
整備されていました。
こういう利用方法は本当にかしこいですね!
一部で鉄橋 ・・・ 福川鉄橋 ・・・
を見ることが出来ました。
こういう工場を見るのは、
とても感慨深いです。
旅行というには近すぎますが、
とても面白い時間を過ごせました。
2012年08月22日
しなの鉄道 大屋駅
外観からの写真ですが、、、
意外に知られていない歴史がある駅です。


製糸業が産業主体のころ、
生糸輸送のために作られた駅です。
古い駅舎とコンコースには、
その趣も感じられます。

この駅前を見ると、
しなの鉄道の苦戦が如実に分かります。
意外に知られていない歴史がある駅です。
製糸業が産業主体のころ、
生糸輸送のために作られた駅です。
古い駅舎とコンコースには、
その趣も感じられます。
この駅前を見ると、
しなの鉄道の苦戦が如実に分かります。
2012年07月31日
富岡製糸場
群馬県富岡市にある近代産業遺産です。
現在、世界遺産登録に向けて、
尽力されてます。
以前からに気になっていましたが、
実際に訪れてみて、
改めて、この手の遺産に感動し、
とにかく見て回れるものは、
早くに見学したい衝動にかられました。
この施設は、
絶対に世界遺産に登録してもらいたいです。
それでは、ここから・・・・

市営駐車場が3か所ほどあり、
そこから製糸工場まで、
このような目印が道路にあります。
食事やカフェ系も見学後、
周辺でとれるので、
駐車場に停めるのがベストですが、
ここの駐車料金は意外に高いです。



正門を入ると、
左手に守衛所や受付があります。
正面には、東繭倉庫が見えます。



入場料は500円です。
専門のガイドさんがいて、
時間ごとに案内してくれます。
その案内とともに施設めぐりすると、
より濃い見学ができます。
<<概略>>
江戸時代が終わって、
明治維新が起こりました。
ここでの大きな変化は開国で、
海外の文化がどんどん
流入してくるようになります。
当時の日本にとって、
最初の産業と言っても過言ではないのが、
養蚕業、製糸業でした。
初期の日本の製糸業は、
手工業がメインだったため、
品質は不安定、量も少ない、
技術力も低い など散々たる状況でした。
先行していたのは、
欧米、特にフランスだったそうです。
そこで明治政府は製糸業について、
海外より製造技術を習得し、
機械化で安定・大量生産する、
人材育成、国内拠点増強
を掲げました。
指導者には当時、横浜にいたブリュナさんにお願いし、
富岡の地に製糸業の官営モデル工場を造りました。
フランス人のブリュナさんはキーマンで、
生糸の検査員をされていた方ですが、
富岡製糸工場の建設から
世界レベルの生糸生産まで
力になってくれた方です。
そして、日本は世界No1の生糸の生産量を
誇るまでになりました。

この官営工場の創業は明治5年です。
アーチ状の入り口に刻印のブロックがあります。
近代遺産の象徴の一つはレンガです。
このレンガは地元、深谷などから集められたそうです。



繭は夏に1回しか取れないそうですが、
製造に支障がないよう大量に保管できる倉庫が、
東西に2つあります。


木骨レンガ造という作りだそうです。
柱に木材、その間をレンガで埋める造りです。
ガラスも当時の日本にはなかったため、
フランスから取り寄せたそうです。


ここは女工館。
女工、もしくは工女ともいわれますが、
日本全国各地から製糸技術収集のために集まった女工を
指導するフランス人女性教師が宿泊した場所です。
日本人女工が寝泊まりするところは、
寄宿舎として別に建てられています。





ここは繰糸場。
繭から生糸をとる作業が行われていた場所。
当初はフランス式繰糸機が配置されたいたそうです。
現在は、プリンス社製(日産プリンス社製)自動繰糸機が
ビニールの下、置かれています。

電力室です。

この方は、横田(和田)英さんという女工さんです。
何と長野県松代町出身でここで機械製糸を学んだそうです。
ここで習得したものを、
地元に戻り、
後進指導に役立てたそうです。

繰糸場内の造りです。
本来は屋根を支えるため、
地上から柱が突っ張っているのですが、
動線確保のため柱を取り、
三角形の補強で造られています。
この技術は、東京スカイツリーにも
応用されているそうです。


ここは診療室。


近代遺産の象徴のもうひとつが煙突。
石炭を燃やして蒸気を動力源に
機械類を動かしていたようです。


このアスファルトの下には、
下水口が埋設されており、
悪臭漂う工場排水を近くを流れる鏑川へ
流していたそうです。
この川へ流すという発想は日本にはなく、
やはり海外から導入されたノウハウだそうです。

ここは東繭倉庫を改造して造られた資料館。
売店などもあります。


ここはブリュナ館。
この官営工場のおかげて、
日本は製糸業で世界トップとなります。
この工場も、所定の成果を達成した後、
三井家に譲渡。民営化されます。
その後さらに、片倉工業と合併。
この片倉工業は岡谷市出身製糸業家の片倉氏が
起こした企業です。
世界でトップになった日本の製糸業も、
米国のナイロン素材や中国の台頭などで、
衰退し、外資獲得手法は重金属系に
とってかわるようになりました。
製糸業は長野県ともつながりが深いということ、
また日本人は優秀でまじめな民俗であること、
とっかかりはどうしても欧米に劣るということ、
などが分かりました。
そして、群馬県は、
この他にも碓氷峠の鉄道遺産など、
観光もうまくやっているのが分かります。
長野県にも多くの近代遺産や歴史建造物が
あるにもかかわらず、活用されていません。
もっとうまく利用できる方法があるはずですが、、、
現在、世界遺産登録に向けて、
尽力されてます。
以前からに気になっていましたが、
実際に訪れてみて、
改めて、この手の遺産に感動し、
とにかく見て回れるものは、
早くに見学したい衝動にかられました。
この施設は、
絶対に世界遺産に登録してもらいたいです。
それでは、ここから・・・・
市営駐車場が3か所ほどあり、
そこから製糸工場まで、
このような目印が道路にあります。
食事やカフェ系も見学後、
周辺でとれるので、
駐車場に停めるのがベストですが、
ここの駐車料金は意外に高いです。
正門を入ると、
左手に守衛所や受付があります。
正面には、東繭倉庫が見えます。
入場料は500円です。
専門のガイドさんがいて、
時間ごとに案内してくれます。
その案内とともに施設めぐりすると、
より濃い見学ができます。
<<概略>>
江戸時代が終わって、
明治維新が起こりました。
ここでの大きな変化は開国で、
海外の文化がどんどん
流入してくるようになります。
当時の日本にとって、
最初の産業と言っても過言ではないのが、
養蚕業、製糸業でした。
初期の日本の製糸業は、
手工業がメインだったため、
品質は不安定、量も少ない、
技術力も低い など散々たる状況でした。
先行していたのは、
欧米、特にフランスだったそうです。
そこで明治政府は製糸業について、
海外より製造技術を習得し、
機械化で安定・大量生産する、
人材育成、国内拠点増強
を掲げました。
指導者には当時、横浜にいたブリュナさんにお願いし、
富岡の地に製糸業の官営モデル工場を造りました。
フランス人のブリュナさんはキーマンで、
生糸の検査員をされていた方ですが、
富岡製糸工場の建設から
世界レベルの生糸生産まで
力になってくれた方です。
そして、日本は世界No1の生糸の生産量を
誇るまでになりました。
この官営工場の創業は明治5年です。
アーチ状の入り口に刻印のブロックがあります。
近代遺産の象徴の一つはレンガです。
このレンガは地元、深谷などから集められたそうです。
繭は夏に1回しか取れないそうですが、
製造に支障がないよう大量に保管できる倉庫が、
東西に2つあります。
木骨レンガ造という作りだそうです。
柱に木材、その間をレンガで埋める造りです。
ガラスも当時の日本にはなかったため、
フランスから取り寄せたそうです。
ここは女工館。
女工、もしくは工女ともいわれますが、
日本全国各地から製糸技術収集のために集まった女工を
指導するフランス人女性教師が宿泊した場所です。
日本人女工が寝泊まりするところは、
寄宿舎として別に建てられています。
ここは繰糸場。
繭から生糸をとる作業が行われていた場所。
当初はフランス式繰糸機が配置されたいたそうです。
現在は、プリンス社製(日産プリンス社製)自動繰糸機が
ビニールの下、置かれています。
電力室です。
この方は、横田(和田)英さんという女工さんです。
何と長野県松代町出身でここで機械製糸を学んだそうです。
ここで習得したものを、
地元に戻り、
後進指導に役立てたそうです。
繰糸場内の造りです。
本来は屋根を支えるため、
地上から柱が突っ張っているのですが、
動線確保のため柱を取り、
三角形の補強で造られています。
この技術は、東京スカイツリーにも
応用されているそうです。
ここは診療室。
近代遺産の象徴のもうひとつが煙突。
石炭を燃やして蒸気を動力源に
機械類を動かしていたようです。
このアスファルトの下には、
下水口が埋設されており、
悪臭漂う工場排水を近くを流れる鏑川へ
流していたそうです。
この川へ流すという発想は日本にはなく、
やはり海外から導入されたノウハウだそうです。
ここは東繭倉庫を改造して造られた資料館。
売店などもあります。
ここはブリュナ館。
この官営工場のおかげて、
日本は製糸業で世界トップとなります。
この工場も、所定の成果を達成した後、
三井家に譲渡。民営化されます。
その後さらに、片倉工業と合併。
この片倉工業は岡谷市出身製糸業家の片倉氏が
起こした企業です。
世界でトップになった日本の製糸業も、
米国のナイロン素材や中国の台頭などで、
衰退し、外資獲得手法は重金属系に
とってかわるようになりました。
製糸業は長野県ともつながりが深いということ、
また日本人は優秀でまじめな民俗であること、
とっかかりはどうしても欧米に劣るということ、
などが分かりました。
そして、群馬県は、
この他にも碓氷峠の鉄道遺産など、
観光もうまくやっているのが分かります。
長野県にも多くの近代遺産や歴史建造物が
あるにもかかわらず、活用されていません。
もっとうまく利用できる方法があるはずですが、、、
2012年07月16日
旧中込学校 国重要文化財
この手の学校、すなわち洋風に建築された
古い建造物は全国各地に存在しています。
旧中込学校は、1875年に建てられ、
日本最古の校舎が現存していることで有名です。


学校の始まりは、
1872年の『学制』が発布されてからで、
ここから義務教育が制度化されたそうです。
そして1879年、『学制』から『教育令』に変わり、
学校運営は市町村主体となりました。
今では当たり前の学校教育ですが、
当時は多くの問題を抱えていたそうです。
明治時代ですから、
教育は無の状態に加え、
西洋文化がどんどん入ってきていますので、
壮絶な変化を当時の人たちは、
受け入れてきたのでしょう。
建物内部はこんな感じ。。。




木の机、懐かしいです。
机の中の食べ残したパンが
信じられない変化をしていたのに
驚きましたね。
この学校も改築されているそうですが、
当時の趣が感じられます。


このオルガンがとても懐かしいです。
教育はその人の思想や信念にも
影響を与える重要なものです。
義務教育は賛成ですが、
その内容は本当に難しいと思います。
歴史的にも、
富国強兵政策にのとった教育、
天皇崇拝の教育、
敗戦後は民主主義的教育、
現代ではゆとり教育となるのでしょうか。
教育文化は、
ものすごく時代を繁栄しているとおもいます。
ワタミの渡邉会長の本にもありますが、
人にも臨界期という物事に対する最適期間があって、
一定期間に正しい教育を受けいないと、
成人した際、社会に順応できないということがあります。
大津のいじめについて、悲しさと怒りとやるせなさが
湧きおこってきますよね。
私はこういう文化財めぐりをしながら、
登山で自分いじめをしてきます。
ここは正真正銘の近代文化遺産です。
古い建造物は全国各地に存在しています。
旧中込学校は、1875年に建てられ、
日本最古の校舎が現存していることで有名です。
学校の始まりは、
1872年の『学制』が発布されてからで、
ここから義務教育が制度化されたそうです。
そして1879年、『学制』から『教育令』に変わり、
学校運営は市町村主体となりました。
今では当たり前の学校教育ですが、
当時は多くの問題を抱えていたそうです。
明治時代ですから、
教育は無の状態に加え、
西洋文化がどんどん入ってきていますので、
壮絶な変化を当時の人たちは、
受け入れてきたのでしょう。
建物内部はこんな感じ。。。
木の机、懐かしいです。
机の中の食べ残したパンが
信じられない変化をしていたのに
驚きましたね。
この学校も改築されているそうですが、
当時の趣が感じられます。
このオルガンがとても懐かしいです。
教育はその人の思想や信念にも
影響を与える重要なものです。
義務教育は賛成ですが、
その内容は本当に難しいと思います。
歴史的にも、
富国強兵政策にのとった教育、
天皇崇拝の教育、
敗戦後は民主主義的教育、
現代ではゆとり教育となるのでしょうか。
教育文化は、
ものすごく時代を繁栄しているとおもいます。
ワタミの渡邉会長の本にもありますが、
人にも臨界期という物事に対する最適期間があって、
一定期間に正しい教育を受けいないと、
成人した際、社会に順応できないということがあります。
大津のいじめについて、悲しさと怒りとやるせなさが
湧きおこってきますよね。
私はこういう文化財めぐりをしながら、
登山で自分いじめをしてきます。
ここは正真正銘の近代文化遺産です。
2012年07月02日
千ヶ滝湯川用水温水路
最近の農業は悲しい面が多いですが、
本来はもっとも重要な産業の一つのはずです。
小諸市御影地区や
佐久市岩村田地区の農業用水は、
軽井沢の千ヶ滝と湯川から
導水されてます。
全長は19kmくらいあるそうです。
その道中に千ヶ滝湯川用水温水路があります。

1650年から農業の開拓目的で
開発されたそうですが、
その水源は雪解け水が主であったため、
とても冷たく、農業用水としては不適だったそうです。
水源の水温はかんがい期間平均13.2℃、
土水路を流れ、到達したときの温度は15℃だそうです。
その水温を上昇させるために、
この温水路が建設されたとのことでした。
軽井沢、追分に幅20m長さ934mの
水路が建設され、水田の水温は18.3℃となり、
水稲の冷害が防止されたそうです。

近年の温水路は、昭和42年に完成し、
その間、幾度か改良もされ、
現在も機能しています。


地元には御影用水と呼ばれる農業用水があり、
その恩恵を受けています。
現在の温水路の淵には、
高級そうな住宅も見られ、
リゾート地の趣もあり、
とても優雅な環境でした。
本来はもっとも重要な産業の一つのはずです。
小諸市御影地区や
佐久市岩村田地区の農業用水は、
軽井沢の千ヶ滝と湯川から
導水されてます。
全長は19kmくらいあるそうです。
その道中に千ヶ滝湯川用水温水路があります。
1650年から農業の開拓目的で
開発されたそうですが、
その水源は雪解け水が主であったため、
とても冷たく、農業用水としては不適だったそうです。
水源の水温はかんがい期間平均13.2℃、
土水路を流れ、到達したときの温度は15℃だそうです。
その水温を上昇させるために、
この温水路が建設されたとのことでした。
軽井沢、追分に幅20m長さ934mの
水路が建設され、水田の水温は18.3℃となり、
水稲の冷害が防止されたそうです。
近年の温水路は、昭和42年に完成し、
その間、幾度か改良もされ、
現在も機能しています。
地元には御影用水と呼ばれる農業用水があり、
その恩恵を受けています。
現在の温水路の淵には、
高級そうな住宅も見られ、
リゾート地の趣もあり、
とても優雅な環境でした。
2012年06月12日
新たな興味
これまでの人生で好景気というものは
経験したことありません。
一方で、社会に出た時は、
バブルがはじけて、
就職氷河期、
失われた20年を過ごし、
阪神淡路大震災、東日本大震災、
リーマンショック、
第二ベビーブーム世代、高齢化社会、
政治の腐敗、
本当に厳しい時代を生きています。
そして、みんな踏ん張っています。
これからもおそらく、苦しい状態が続くでしょう。
同じ日本人でもいろいろな人種が
いるようになってしまいましたから・・・
一方では、GDPは まだ世界3位。
ついこの間までは、世界2位です。
これは、昨日、今日の出来事でなく、
過去の産物になります。
好景気を経験することは難しいでしょうが、
それを感じるために、
このような本を読んだり、
実際に足を運ぶのは良いでしょう。
現代、未来を見据えて、
過去も見て行こうと思います。
2012年06月06日
足尾~日光へ小旅行 足尾銅山観光
足尾銅山の坑道内が
観光用に整備されていて、
様子を見学することができます。

入場料金は 800円(大人一人)です。
トロッコにのって、坑道内に入っていきます。


トロッコにのっている時間は、わずか数分程度ですが、
なぜかとてもわくわくします。
坑道内は結構寒くて、
暑い日であれば、冷房要らず。
ここで作業するって寒さとの戦いだと感じました。


坑道は銅山内を縦横無尽に駆け巡っており、
総延長は、1,234kmで、東京-博多間と同じだそうです。
ところどころに、人形もあって、
当時の掘削状況を説明してくれます。
怖い人形もいくつかありましたが・・・


江戸時代からの操業なので、
手掘りから機械化までの変遷が見られます。
過酷で劣悪な環境に加え、
有害物質もあり、
常に病気の心配もあったそうです。
最盛期は約12,000人がこの渓谷にいたそうです。
銅や硫酸の製造だけでなく、
採掘の機械などの開発・製造もしていて、
一大産業の地だったことが伺えます。
古川電工さんは、産業機械の製造もしてますからね。
どこの国でも、経済の成長ステージとして、
スタート~成長期~安定期 衰退期
とありますが、この時期はスタート、成長期。
肉体労働中心の経済状況。
それが完全に成熟してしまった今の日本では
もう見られない光景です。
当時の男たちには
やはり敬意をいだきます。
観光用に整備されていて、
様子を見学することができます。
入場料金は 800円(大人一人)です。
トロッコにのって、坑道内に入っていきます。
トロッコにのっている時間は、わずか数分程度ですが、
なぜかとてもわくわくします。
坑道内は結構寒くて、
暑い日であれば、冷房要らず。
ここで作業するって寒さとの戦いだと感じました。
坑道は銅山内を縦横無尽に駆け巡っており、
総延長は、1,234kmで、東京-博多間と同じだそうです。
ところどころに、人形もあって、
当時の掘削状況を説明してくれます。
怖い人形もいくつかありましたが・・・
江戸時代からの操業なので、
手掘りから機械化までの変遷が見られます。
過酷で劣悪な環境に加え、
有害物質もあり、
常に病気の心配もあったそうです。
最盛期は約12,000人がこの渓谷にいたそうです。
銅や硫酸の製造だけでなく、
採掘の機械などの開発・製造もしていて、
一大産業の地だったことが伺えます。
古川電工さんは、産業機械の製造もしてますからね。
どこの国でも、経済の成長ステージとして、
スタート~成長期~安定期 衰退期
とありますが、この時期はスタート、成長期。
肉体労働中心の経済状況。
それが完全に成熟してしまった今の日本では
もう見られない光景です。
当時の男たちには
やはり敬意をいだきます。
2012年06月05日
足尾~日光へ小旅行 足尾銅山
かつては銅の産出で大いに栄えた銅山です。
またその弊害として、足尾鉱毒問題が有名で、
教科書で田中正造の活動、もしくは名前を
聞いたい人も多いと思います。
この足尾銅山は、銅の産出により、
富をもたらし、雇用を生み出したということで、
公害よりも経済発展、繁栄に光を当てています。

こちらは変電所との掲示がありました。
足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を
果たしていたそうです。
今も変電所として使われているそうです。

これは?ですが、当時、使用していた何かでしょう。
重油を使った発電所らしいとの記載がありましたが?

古河電工系グループ会社が経営していたそうです。

歴史を感じる鉄橋です。
今は使えませんが、残っています。

これが有名な足尾銅山の煙突です。
周辺にも工場など隣接していたそうですが、
経年劣化などもあり、整地が進んでいるそうです。


本山精錬所
採掘された鉱石を処理する工場です。
当時の最先端工場で、
次々と生起する公害にも対処してきたとありました。
鉱石から銅の製錬はもちろん、
製錬時に出る亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、
出荷もしていたそうです。
近代化産業遺群にも登録されています。
この手の観光が面白いです。
足尾銅山観光、わたらせ渓谷鉄道も
少しですが、後日アップします。
またその弊害として、足尾鉱毒問題が有名で、
教科書で田中正造の活動、もしくは名前を
聞いたい人も多いと思います。
この足尾銅山は、銅の産出により、
富をもたらし、雇用を生み出したということで、
公害よりも経済発展、繁栄に光を当てています。
こちらは変電所との掲示がありました。
足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を
果たしていたそうです。
今も変電所として使われているそうです。
これは?ですが、当時、使用していた何かでしょう。
重油を使った発電所らしいとの記載がありましたが?
古河電工系グループ会社が経営していたそうです。
歴史を感じる鉄橋です。
今は使えませんが、残っています。
これが有名な足尾銅山の煙突です。
周辺にも工場など隣接していたそうですが、
経年劣化などもあり、整地が進んでいるそうです。
本山精錬所
採掘された鉱石を処理する工場です。
当時の最先端工場で、
次々と生起する公害にも対処してきたとありました。
鉱石から銅の製錬はもちろん、
製錬時に出る亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、
出荷もしていたそうです。
近代化産業遺群にも登録されています。
この手の観光が面白いです。
足尾銅山観光、わたらせ渓谷鉄道も
少しですが、後日アップします。
2012年04月14日
長崎旅行 端島(軍艦島)見学
今回の主目的は、この軍艦島観光でした。
この船に乗っていきます。
4,300円かかり、4,000円は船代、300円が上陸料金です。
主な観光船は3社あるそうですが、高島海上交通を選択。
そのプレゼンやホスピタリティーは最高でした。

この周辺の土地は、そもそも炭鉱の島。
端島もその一つで、当時、最高級の石炭などが取れたそうです。


資本は三菱系。産業は炭鉱と造船がメイン。
三菱と言えば 岩崎 弥太郎。
至る所に像があります。
全国的にも超一流企業ですが、
地元でも最もステータスだそうです。


<<主な見どころ>>
一番高いところにあるのは、貯水槽。
離島なので、真水に一番苦労されたそうです。
初期は海水を蒸留していたそうですが、人口増加に伴い、
本島から水道ケーブルを引いて導水したそうです。
とはいうものの、十分な水量の確保は出来ず、
風呂などは上がり湯のみ真水だったとのことです。


海底の水道ケーブル
これは幹部棟だったか?
1891年~1974年まで採掘をしていたそうです。
この時代の仕事環境は、今と違い、まさに3K。
階級も明確で、一般社員、いわゆる作業者、ホワイト以外は、
大変厳しい労働を強いられたそうです。

これは第二竪抗入口。
当時の主力坑だそうですが、その激悪環境の最たるものだそうです。
作業場は、1,000m以上の海底で、そこでの採掘作業。
エレベーターは床があるのみで、横四方は簡単な柵のみ。
天井はないそうです。
この階段を上がって、そのエレベーターへ行くそうですが、
自分の足でその階段を下りて帰れない人も多くいたそうです。
そのエレベーターも、今の高速エレベーターと同じ速度が出たらしく
降りる際に失神する人や(特に新人など)、
気温30度、湿度95%の環境での海底作業で
体調を崩したりした人もいたそうです。
当時を知る人は、一昨年のチリの落盤事故、
先日のペルーの落盤事故は、
他人事でない、似たような経験もあった?!ということのようです。
でも、家族を守るため、生きていくため、生活のために、
恐怖や死の危険を克服して働いたそうです。
当時の男が逞しく、尊敬される理由が感じられます。

これは、学校だそうです。

これは鉱員社宅。

これが総合事務所。


これは日本最古のコンクリート建物。
最新の建造技術の結集だそうです。

堤防は10m以上あるそうですが、
台風などで簡単に波が超えてくるそうです。
今の状態はすべて自然崩落だそうです。


風化も激しいので、電柱は木製でした。

取れた石炭を船に乗せるためのベルトコンベア跡。

端島神社
島民の心の拠り所だったそうです。

島全景

軍艦島までの先導中、三菱の日本最大造船工場を通ったり、
伊王島、高島(離島)に寄ったり、
長野では見ることのない景色を見てきました。



炭鉱閉山後、三菱から所有権が変わり、観光地として登録されました。
今と比較しても、当時の人口密度は高く、
最高で5,300人が 面積 63,000平方メートルにいたそうです。
過酷な労働との交換条件なのか、
居住や生活など 当時でも最高の水準、
戦争の時代でしたが、多くを保障、免責されていたそうです。
特にテレビなどの電化製品普及率も県下一とのことです。
最初は小さかった離島が、
徐々に埋め立てされ、人口も増え、採掘量も増え、
ここまでの島になったそうです。
しかし、エネルギーの転換により、
徐々に人口、出炭量が減り、無人島になったそうです。
とてもハイリスク、ハイリターンな生活、人生と感じました。
本当に興味深い観光になりました。
この船に乗っていきます。
4,300円かかり、4,000円は船代、300円が上陸料金です。
主な観光船は3社あるそうですが、高島海上交通を選択。
そのプレゼンやホスピタリティーは最高でした。
この周辺の土地は、そもそも炭鉱の島。
端島もその一つで、当時、最高級の石炭などが取れたそうです。
資本は三菱系。産業は炭鉱と造船がメイン。
三菱と言えば 岩崎 弥太郎。
至る所に像があります。
全国的にも超一流企業ですが、
地元でも最もステータスだそうです。
<<主な見どころ>>
一番高いところにあるのは、貯水槽。
離島なので、真水に一番苦労されたそうです。
初期は海水を蒸留していたそうですが、人口増加に伴い、
本島から水道ケーブルを引いて導水したそうです。
とはいうものの、十分な水量の確保は出来ず、
風呂などは上がり湯のみ真水だったとのことです。
海底の水道ケーブル
これは幹部棟だったか?
1891年~1974年まで採掘をしていたそうです。
この時代の仕事環境は、今と違い、まさに3K。
階級も明確で、一般社員、いわゆる作業者、ホワイト以外は、
大変厳しい労働を強いられたそうです。
これは第二竪抗入口。
当時の主力坑だそうですが、その激悪環境の最たるものだそうです。
作業場は、1,000m以上の海底で、そこでの採掘作業。
エレベーターは床があるのみで、横四方は簡単な柵のみ。
天井はないそうです。
この階段を上がって、そのエレベーターへ行くそうですが、
自分の足でその階段を下りて帰れない人も多くいたそうです。
そのエレベーターも、今の高速エレベーターと同じ速度が出たらしく
降りる際に失神する人や(特に新人など)、
気温30度、湿度95%の環境での海底作業で
体調を崩したりした人もいたそうです。
当時を知る人は、一昨年のチリの落盤事故、
先日のペルーの落盤事故は、
他人事でない、似たような経験もあった?!ということのようです。
でも、家族を守るため、生きていくため、生活のために、
恐怖や死の危険を克服して働いたそうです。
当時の男が逞しく、尊敬される理由が感じられます。
これは、学校だそうです。
これは鉱員社宅。
これが総合事務所。
これは日本最古のコンクリート建物。
最新の建造技術の結集だそうです。
堤防は10m以上あるそうですが、
台風などで簡単に波が超えてくるそうです。
今の状態はすべて自然崩落だそうです。
風化も激しいので、電柱は木製でした。
取れた石炭を船に乗せるためのベルトコンベア跡。
端島神社
島民の心の拠り所だったそうです。
島全景
軍艦島までの先導中、三菱の日本最大造船工場を通ったり、
伊王島、高島(離島)に寄ったり、
長野では見ることのない景色を見てきました。
炭鉱閉山後、三菱から所有権が変わり、観光地として登録されました。
今と比較しても、当時の人口密度は高く、
最高で5,300人が 面積 63,000平方メートルにいたそうです。
過酷な労働との交換条件なのか、
居住や生活など 当時でも最高の水準、
戦争の時代でしたが、多くを保障、免責されていたそうです。
特にテレビなどの電化製品普及率も県下一とのことです。
最初は小さかった離島が、
徐々に埋め立てされ、人口も増え、採掘量も増え、
ここまでの島になったそうです。
しかし、エネルギーの転換により、
徐々に人口、出炭量が減り、無人島になったそうです。
とてもハイリスク、ハイリターンな生活、人生と感じました。
本当に興味深い観光になりました。
2012年03月27日
長野電鉄 屋代線
2012年3月末で完全撤退とのことで、
今、大賑わいです。
世間の盛り上がりに乗じてみてきました。
学校もお休みなので、子供たちもたくさんいました。



このスペースはなくなってしまうのですね。


出発前の屋代駅の写真でした。
この後、須坂まで電車の旅をゆっくり味わいました。
流行りの車両とは対照的で、ものすごく味わいを感じます。
でも、速度は70km/hくらい出てたような・・。
今まであったものが無くなるというのは、本当にさみしいですね。
特にこの3月という季節は、卒業という言葉のもと、
番組改編だったり(テレビでなくFMラジオがメイン)、
引退したり、辞めたりと去っていく人、ものが多くて、さみしい限りです。
時の流れ、時代の流れ、決断、を尊重しエールを送ります。
次回も残りの長電の旅を掲載します。
今、大賑わいです。
世間の盛り上がりに乗じてみてきました。
学校もお休みなので、子供たちもたくさんいました。
このスペースはなくなってしまうのですね。
出発前の屋代駅の写真でした。
この後、須坂まで電車の旅をゆっくり味わいました。
流行りの車両とは対照的で、ものすごく味わいを感じます。
でも、速度は70km/hくらい出てたような・・。
今まであったものが無くなるというのは、本当にさみしいですね。
特にこの3月という季節は、卒業という言葉のもと、
番組改編だったり(テレビでなくFMラジオがメイン)、
引退したり、辞めたりと去っていく人、ものが多くて、さみしい限りです。
時の流れ、時代の流れ、決断、を尊重しエールを送ります。
次回も残りの長電の旅を掲載します。
2012年03月19日
碓氷峠 アプトの道
まだ早いかな~と思いましたが、その通りでした。
とても寒いです。雪も舞っていました。
でも、どうしても行きたかった所です。

往復 9kmくらい いい運動ですが、まだ寒いです。

片側はまだ生きているようです。もう一方がウォーキングルートです。

昔は、特急あさまの名称で、この坂を機関車2両でサポートしていました。
ここは、横川駅から1キロ程度ですが、結構な坂でいい運動になります。

ここは、丸山変電所跡だそうです。
詳しくはわかりませんが、必要なんでしょう。
説明の看板はありました。
線路に面していましたが、
当時、電車で走行中、記憶のある建屋ではありませんでした。


すごく趣のあるトンネルです。
作るのに相当の苦労があったろうな~、
当時の最先端の技術で作られたんだろうな~、
最も安全な策が盛り込まれたトンネルなんだろうな~、
などなど、
今と比較すれは、素人目にも もっとこうだろうと、
一言二言 言いたくなりますが・・・

ここが終点です。さらに延長やトロッコ列車の運行も
計画されているそうです。

山ヒル注意という掲示がちょっと気になりました。
もう少し緑が深くなれば美しいと思いますが、
その山ヒルや ニョロニョロしているヤツとかいたら、
絶対にいけません。
路線のオブジェもたくさんあるので、またUPDATEしたいと思います。
鉄道好きはもちろん、健康や気分転換にもいい環境です。
とても寒いです。雪も舞っていました。
でも、どうしても行きたかった所です。
往復 9kmくらい いい運動ですが、まだ寒いです。
片側はまだ生きているようです。もう一方がウォーキングルートです。
昔は、特急あさまの名称で、この坂を機関車2両でサポートしていました。
ここは、横川駅から1キロ程度ですが、結構な坂でいい運動になります。
ここは、丸山変電所跡だそうです。
詳しくはわかりませんが、必要なんでしょう。
説明の看板はありました。
線路に面していましたが、
当時、電車で走行中、記憶のある建屋ではありませんでした。
すごく趣のあるトンネルです。
作るのに相当の苦労があったろうな~、
当時の最先端の技術で作られたんだろうな~、
最も安全な策が盛り込まれたトンネルなんだろうな~、
などなど、
今と比較すれは、素人目にも もっとこうだろうと、
一言二言 言いたくなりますが・・・
ここが終点です。さらに延長やトロッコ列車の運行も
計画されているそうです。
山ヒル注意という掲示がちょっと気になりました。
もう少し緑が深くなれば美しいと思いますが、
その山ヒルや ニョロニョロしているヤツとかいたら、
絶対にいけません。
路線のオブジェもたくさんあるので、またUPDATEしたいと思います。
鉄道好きはもちろん、健康や気分転換にもいい環境です。