今回の主目的は、この軍艦島観光でした。
この船に乗っていきます。
4,300円かかり、4,000円は船代、300円が上陸料金です。
主な観光船は3社あるそうですが、高島海上交通を選択。
そのプレゼンやホスピタリティーは最高でした。
この周辺の土地は、そもそも炭鉱の島。
端島もその一つで、当時、最高級の石炭などが取れたそうです。
資本は三菱系。産業は炭鉱と造船がメイン。
三菱と言えば 岩崎 弥太郎。
至る所に像があります。
全国的にも超一流企業ですが、
地元でも最もステータスだそうです。
一番高いところにあるのは、貯水槽。
離島なので、真水に一番苦労されたそうです。
初期は海水を蒸留していたそうですが、人口増加に伴い、
本島から水道ケーブルを引いて導水したそうです。
とはいうものの、十分な水量の確保は出来ず、
風呂などは上がり湯のみ真水だったとのことです。
海底の水道ケーブル
これは幹部棟だったか?
1891年~1974年まで採掘をしていたそうです。
この時代の仕事環境は、今と違い、まさに3K。
階級も明確で、一般社員、いわゆる作業者、ホワイト以外は、
大変厳しい労働を強いられたそうです。
これは第二竪抗入口。
当時の主力坑だそうですが、その激悪環境の最たるものだそうです。
作業場は、1,000m以上の海底で、そこでの採掘作業。
エレベーターは床があるのみで、横四方は簡単な柵のみ。
天井はないそうです。
この階段を上がって、そのエレベーターへ行くそうですが、
自分の足でその階段を下りて帰れない人も多くいたそうです。
そのエレベーターも、今の高速エレベーターと同じ速度が出たらしく
降りる際に失神する人や(特に新人など)、
気温30度、湿度95%の環境での海底作業で
体調を崩したりした人もいたそうです。
当時を知る人は、一昨年のチリの落盤事故、
先日のペルーの落盤事故は、
他人事でない、似たような経験もあった?!ということのようです。
でも、家族を守るため、生きていくため、生活のために、
恐怖や死の危険を克服して働いたそうです。
当時の男が逞しく、尊敬される理由が感じられます。
これは、学校だそうです。
これは鉱員社宅。
これが総合事務所。
これは日本最古のコンクリート建物。
最新の建造技術の結集だそうです。
堤防は10m以上あるそうですが、
台風などで簡単に波が超えてくるそうです。
今の状態はすべて自然崩落だそうです。
風化も激しいので、電柱は木製でした。
取れた石炭を船に乗せるためのベルトコンベア跡。
端島神社
島民の心の拠り所だったそうです。
島全景
軍艦島までの先導中、三菱の日本最大造船工場を通ったり、
伊王島、高島(離島)に寄ったり、
長野では見ることのない景色を見てきました。
炭鉱閉山後、三菱から所有権が変わり、観光地として登録されました。
今と比較しても、当時の人口密度は高く、
最高で5,300人が 面積 63,000平方メートルにいたそうです。
過酷な労働との交換条件なのか、
居住や生活など 当時でも最高の水準、
戦争の時代でしたが、多くを保障、免責されていたそうです。
特にテレビなどの電化製品普及率も県下一とのことです。
最初は小さかった離島が、
徐々に埋め立てされ、人口も増え、採掘量も増え、
ここまでの島になったそうです。
しかし、エネルギーの転換により、
徐々に人口、出炭量が減り、無人島になったそうです。
とてもハイリスク、ハイリターンな生活、人生と感じました。
本当に興味深い観光になりました。