富岡製糸場
群馬県富岡市にある近代産業遺産です。
現在、世界遺産登録に向けて、
尽力されてます。
以前からに気になっていましたが、
実際に訪れてみて、
改めて、この手の遺産に感動し、
とにかく見て回れるものは、
早くに見学したい衝動にかられました。
この施設は、
絶対に世界遺産に登録してもらいたいです。
それでは、ここから・・・・
市営駐車場が3か所ほどあり、
そこから製糸工場まで、
このような目印が道路にあります。
食事やカフェ系も見学後、
周辺でとれるので、
駐車場に停めるのがベストですが、
ここの駐車料金は意外に高いです。
正門を入ると、
左手に守衛所や受付があります。
正面には、東繭倉庫が見えます。
入場料は500円です。
専門のガイドさんがいて、
時間ごとに案内してくれます。
その案内とともに施設めぐりすると、
より濃い見学ができます。
江戸時代が終わって、
明治維新が起こりました。
ここでの大きな変化は開国で、
海外の文化がどんどん
流入してくるようになります。
当時の日本にとって、
最初の産業と言っても過言ではないのが、
養蚕業、製糸業でした。
初期の日本の製糸業は、
手工業がメインだったため、
品質は不安定、量も少ない、
技術力も低い など散々たる状況でした。
先行していたのは、
欧米、特にフランスだったそうです。
そこで明治政府は製糸業について、
海外より製造技術を習得し、
機械化で安定・大量生産する、
人材育成、国内拠点増強
を掲げました。
指導者には当時、横浜にいたブリュナさんにお願いし、
富岡の地に製糸業の官営モデル工場を造りました。
フランス人のブリュナさんはキーマンで、
生糸の検査員をされていた方ですが、
富岡製糸工場の建設から
世界レベルの生糸生産まで
力になってくれた方です。
そして、日本は世界No1の生糸の生産量を
誇るまでになりました。
この官営工場の創業は明治5年です。
アーチ状の入り口に刻印のブロックがあります。
近代遺産の象徴の一つはレンガです。
このレンガは地元、深谷などから集められたそうです。
繭は夏に1回しか取れないそうですが、
製造に支障がないよう大量に保管できる倉庫が、
東西に2つあります。
木骨レンガ造という作りだそうです。
柱に木材、その間をレンガで埋める造りです。
ガラスも当時の日本にはなかったため、
フランスから取り寄せたそうです。
ここは女工館。
女工、もしくは工女ともいわれますが、
日本全国各地から製糸技術収集のために集まった女工を
指導するフランス人女性教師が宿泊した場所です。
日本人女工が寝泊まりするところは、
寄宿舎として別に建てられています。
ここは繰糸場。
繭から生糸をとる作業が行われていた場所。
当初はフランス式繰糸機が配置されたいたそうです。
現在は、プリンス社製(日産プリンス社製)自動繰糸機が
ビニールの下、置かれています。
電力室です。
この方は、横田(和田)英さんという女工さんです。
何と長野県松代町出身でここで機械製糸を学んだそうです。
ここで習得したものを、
地元に戻り、
後進指導に役立てたそうです。
繰糸場内の造りです。
本来は屋根を支えるため、
地上から柱が突っ張っているのですが、
動線確保のため柱を取り、
三角形の補強で造られています。
この技術は、東京スカイツリーにも
応用されているそうです。
ここは診療室。
近代遺産の象徴のもうひとつが煙突。
石炭を燃やして蒸気を動力源に
機械類を動かしていたようです。
このアスファルトの下には、
下水口が埋設されており、
悪臭漂う工場排水を近くを流れる鏑川へ
流していたそうです。
この川へ流すという発想は日本にはなく、
やはり海外から導入されたノウハウだそうです。
ここは東繭倉庫を改造して造られた資料館。
売店などもあります。
ここはブリュナ館。
この官営工場のおかげて、
日本は製糸業で世界トップとなります。
この工場も、所定の成果を達成した後、
三井家に譲渡。民営化されます。
その後さらに、片倉工業と合併。
この片倉工業は岡谷市出身製糸業家の片倉氏が
起こした企業です。
世界でトップになった日本の製糸業も、
米国のナイロン素材や中国の台頭などで、
衰退し、外資獲得手法は重金属系に
とってかわるようになりました。
製糸業は長野県ともつながりが深いということ、
また日本人は優秀でまじめな民俗であること、
とっかかりはどうしても欧米に劣るということ、
などが分かりました。
そして、群馬県は、
この他にも碓氷峠の鉄道遺産など、
観光もうまくやっているのが分かります。
長野県にも多くの近代遺産や歴史建造物が
あるにもかかわらず、活用されていません。
もっとうまく利用できる方法があるはずですが、、、
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